2011年3月17日、福岡ブロックから災害協力の一環として、北九州市民球場にて支援物資(2Lペットボトルの水、無洗米)の受入を行いました。市民の方々の協力も頂き、10トンを超える米・水を収集することが出来、いち早く被災地へトラックで輸送しました。
6月4~7日、宮城県へ「東日本大震災人的支援」へ行って参りました。永田理事長以下、途中参加者も含め7名での参加です。県南西部の白石市の旅館を拠点に南東部の亘理市に入っての活動でした。実際、私たちが行なった内容は、被災したもののまだ建物がしっかり残っている家屋を再び住めるようにするため、床下に溜まった汚泥を除去したり残った瓦礫を撤去したりというものです。東北とはいえ日中は20度を越える天気の中、長袖長ズボン、マスク着用での肉体労働は非常に過酷なものでした。何とか復興への一助にとの思いで活動をしましたが、家一軒片付けるのに10人がかりでも4~5日を要します。復興への道は果てしなく遠いと実感しました。
しかし、一方で日々何百人ものボランティアの方々が、全国から入れ替わり立ち代り集まっておられます。近道はないけれど一歩一歩、着実に進んでいく復興への道に、これからも自分に出来ることから協力していきます。
2012年8月21日、北九州市が震災がれきの受入れを決議した宮城県石巻市へ、被災地と市民の現状意識調査のため、北九州市民の声を寄せ書きした旗を持って訪問しました。石巻青年会議所の大丸理事長と面会し、被災地の現状および震災がれき仮置き場の視察を行い、地元ラジオ局にも出演し北九州市民の思いを石巻市民へ伝えました。
そして、地元で夕食を終え記念写真を撮っている時に、若者2名に話しかけらました。「どこから来たのか?」という質問に、「北九州から来ました。」と答えると、一瞬にして顔色がかわり「俺達は、放射能汚染されてねぇ!」と怒鳴られました。大多数の北九州市民の想いとは裏腹に、少数の震災がれき受入れ反対デモの報道が過大に伝わり、石巻市民の心を傷つけていたのでしょう。その後、実情を話し和解できたのですが、実際に現地赴き市民と話すことの大切さを実感する出来事でした。